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オレンジ色

雑談とか日常思ったこととか

理想を求める高二病の自分もいい

世の中に折り合いをつけすぎる大人になることを、

俺は拒否している。

 

社会が言うから仕方がない、

世の中そういうものだから、

世間一般の支持には隷属しなきゃ、

要は、『空気を読んで生きろよ』という感覚。

 

いやだ。

周囲の人間が創りだした空気なんて、

乗ってやるもんか。

 

空気は、期待を押し付ける。

 

『あなたはこういう性質なんだから、こうしなきゃ!』

 

なにひとつ具体的じゃないけれど、

自分の周りにただよう、

『自分らしさ』という感触が、

自分の行動を振り回わす。

 

自分らしさなんてのは、所詮近しい人間が思ってる自分だ。

自分なんて、信念を変えればすぐに変わる。

信じる自分を変えればいいだけなんだから。

 

そう考えたりするけれども、

やっぱり、『自分』っていうのは、確固たるものとしてどこかにあるんだろう。

例えば、俺が教師を嫌っているのは、

俺が生まれ変わっても嫌い続けるくらいに嫌いたいと思っているから、

教師に親近感を持っている人間を信じにくい。

他の面は信じられるけれど、教師に対する言動は信じられない。

俺はこの一生、教師を蔑視し続けるんだろうな。

 

俺はそれでいいと思っているし、

むしろ嫌いなものを規定できてこそ、

自分が何が好きかを語れるのだとも思う。

 

『愛の反対は無関心』

マザー・テレサだっけ?

まさにその通りだと思う。

 

昔はそうは思ってなかった。

憎悪も嫌悪も、対象を見た瞬間に消滅させたくなる感情だ。

むしろ、見るまでもなく消滅していてほしいものだ。

家にGが出たら、家族もろとも消え失せろと思うのと一緒。

 

憎悪する感情は、円滑な人間関係を結ばないし、

むしろ互いを憎しみ合うから、無関心よりよっぽどよくない感情だと思ってた。

 

でも最近、ちょっと考えを改めた。

『あなたのその行動、気に入らないんだけど』

って言われるのと

『あなたのその行動、私に害がないならどうでもいいわ』

って言われるのとでは、

前者のほうが、俺のことを真剣に捉えているんだ。

 

後者は、

『どうでもいい。私には関係のないことだ。』

というスタンスだ。

 

関係のないことっていうのは、

まったく関わりたいとおもわないことだ。

 

どんな関係でも、自分が認識した時点で関係はある。

それでも、『関係ない』と切り捨てる。

それが、無関心なんだろう。

 

憎悪するほうがまだ、その存在をきにかけている。

存在がなくなってもなんとも思わないよりも、

存在が消え失せてスッとする憎悪の感情のほうが、

よっぽど対象に関心を向けている。

 

何もかもに、主体性を無くして受け入れる

優しい自分でいすぎた。

 

嫌いなものは、嫌いと言おう。

俺が理想だと思うことを語ろう。

そうやってようやく、自分の人生を進めれる気がする。