オレンジ色

雑談とか日常思ったこととか

単純化思考

楽しいか楽しくないか。
面白いかつまらないか。

などという、完全な主観的な、感情的な、自分の考えを出していきたいな。

何が好きだろう?
自分のことは大好きだけど、自分が好きなことがわからない。
自分のことをわかってる人って、どれほどいるんだろう?

自分探しとかいって探しに行く人もいるらしいけれど、
自分をどこで見つけるのかは、自分が行ったことがあるところでしかない。

誰かとの思い出にふけったり、自分の身の回りを観察することで、
自分が感情を発露したときのことを思い出せる。

俺の場合は、例えば、小学校1年生のときに友達と思っていた人から言われたセイフ
「また自慢か・・・」
確かに、俺は自慢していたように感じる。
運動ができた(中の上くらいだったけど)とか、
勉強ができた、とか。

100点を取って、それを話すのは自慢、今思うと、確かにその通り。

でも、
「また自慢か・・・」
そのひとことで、俺は自分のことを話せなくなった。
自分のことを話したら、自慢に感じる人がでるかもしれないから。

スポーツについてなら、今の年代にもなると話しやすい。
比較対象にならないから。

バスケやバドミントンが素人レベルでいくら上手かったり、
100mを11秒台で走れたりしようが、
普段接する人が関係していないこと、
すなわち、比較対象にならないことで、いくら優秀であっても、
嫉妬はせず、尊敬を抱きやすい。

逆に、比較対象になること、年収、年齢とか、
「日々の生活に関連して」かつ「客観性」は、自慢になりやすい。

数字で表されることは特に。

『一般的には』、『平均では』なんて指標があるように、
実質的にまったく違う生活をしている人とも、
比較できてしまう。

俺は、その単純化が嫌いだった。
間違っているとさえ思う。

数字で比較することは、人格を比較することにつながらない、
と考えていたから。

でも、最低限、俺が死ぬべきと思わない人間のラインというのも存在する。
逆に言うと、死ぬべきと思う人間がいるということなんだけど。

俺の考えは端的に言うと、バカは死ね、ということ。
誰かを法的に傷つけてまで自分の幸せを願うような人間はクズだ。
でも、バカかどうかを決めるのが俺自身じゃ主観的すぎる。
だから、法律を持ち出した。

でも、その法律でさえも、ただの人間が作り出した多数決の結果でしかなくて、
正義とは言い切れない。

だから、『自分自身が正しいと感じること』を定義しなければ、
自分らしさを定義できない。

 

だから、自分が感じたことを記録して、自分の感情を理解することが、
自分を探すことだと考えた。

感じるために、海外を体験するのは一理ある。
さまざまな人間が生きている現実を体験することで、
他の文化と自分の人生を相対化して、立ち位置を明確に意識する。
許せない範囲、好きだと感じる範囲、を、意識できる。

平凡な暮らしをしていると、すべてを許してしまえるから、
すべてを無為と受け止めやすい。

好きなことが見つからない、というのは、感情の欠落だ。

子供のころは欲求全開だっただろう?
いつのまにか、その欲望を、枯れさせられたんだ。
あるいは、枯れた、か。

どちらにせよ、自分の感情や欲望を隆起させないと、
感情が高ぶらない。平坦な人生で、なんの思い出もイベントもなく無為
時間を過ごすことになる。

俺は、もっと刺激的な日常をおくりたい!
理屈じゃなくて、ただの感情だけど、
安定しつつも無為な日々よりも、何か、イベントがほしい。

そう願える程度には、自分はイベントを欲してる。

匿名性に甘えなければ意見を言えない自分も、なんとか改善したい。
でも、話し方がなってなさすぎてやばいから、ちょっと練習しようかな。

もう、支離滅裂っぷりがやばいけれど、
理性に加えて、感じる心の重要さも考慮できるようになりたいな、と思う今日この頃。