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雑談とか日常思ったこととか

主張がある人間は、キャラ作りをしているだけ

明確な答えがない問題に対して、
強く主張をする場合に、その人の人間性が表れます。

普通の人は、どっちつかずで、

悪い!という主張に共感しては、
善い!という主張にも共感点を見いだせます。

最近の論点では、築地市場豊洲移転は是か非か。
古くからの論題としては、中絶は是か非か、などがあります。
死刑制度は是か非か、というのもありますね。

例として、最近話題の築地市場豊洲への移転で考えてみます。

 

豊洲への移転はダメだという主張の例
豊洲では危険物質が検出されていて、食べ物を扱う市場としてはいけない
・築地は歴史的に上手くやってきたが、移転した場合にどうなるかわからないため、
これまで上手くやってきた方法を変えないべきだ

豊洲への移転を事項すべきという主張の例
豊洲の地下水の環境基準は厳しすぎる。通常の市場としての環境なら築地より上である
・築地は老朽化が進んでおり、耐震性及び衛生面で、豊洲と比較して問題がある

 

どちらの意見も、フラットに見ると共感点はあると思います。

 

僕の意見としては、
科学的な基準として、築地よりも豊洲のほうが安全だと説明されていることで、
築地の歴史よりも、科学的な根拠を信じて、豊洲移転を支持したいと思います。

でも、現時点で、科学的に証明されていない何かが起きる可能性は、
もちろんゼロじゃないですし、
科学的な問題はなくても、市場が繁盛するかどうかはまた別の問題です。

では、あなたはどちらを選びますか?

 

ぶっちゃけ、普通の人は、何も決定権を行使しない立場にいれるんですよね。

経営者の仕事は意思決定だ、とよく言いますが、
答えがない問いに、「これが正解だ!」と嘯くのが、経営ということです。

もちろん、その回答には一定の合理性はありますが、
それでも、『絶対に正しい』なんてことはありません。

普通の人間には、主張なんてなくて、
単に、「どちらがよりましかなー」という、消去法的選択で、日々を生きれます。
人間が精神的に楽になるように、社会を構築してきているからです。

みんながリーダーで、積極的に自分の意見を通そうとすれば、
人類の理念を体現した「法律」というルールなんてできません。

誰かが「法律」を作って、みんなで守る、という意識があるからこそ、
単なる文字でしかない、「法律」が意味を成すのです。

「法律」というルールがなければ、どうやって生きれば良いのか、
より広範囲に、自分で判断することになります。

 

法律という縛りがあるからこそ、人間は「殺人は悪いこと」だと定義できます。
子供の問いかけによくある、「なんで人を殺しては行けないの?」という答えは、
「法律でダメと決められているからだよ」しかないのです。
(これは僕の主張なので、絶対ではないですが)

法律でも、科学でも、あるいは宗教でも、ある一定の一貫性があり、
その一貫性に共感する人々が構成員となって、
構成員がその一貫性を守るからこそ成り立ちます。

 

例えばですが、現代の日本で、『牛は神聖な生き物なので、食べてはいけない』
という主張をする人がいたとします。

普段の食生活を否定されれば、当然反発する人も出てくるでしょう。
でも、多数決を正義とする民主主義では、牛を食べない人が多数派になり、
選挙で勝利したら、「牛を食べてはいけない」という法律が通る可能性はあります。

要は、自分が何を信じるか、ということなのですけれど、
人間の心理は上手くできていて、「周りに合わせる」んですよね。

 

人間の同調の実験で、同調圧力のアッシュの実験があります。

psychology-japan.com

 

法律は、誰かが作った、「多数の人が(周りに合わせて)共感する社会像」です。

人を殺すのは良くないよね、という社会像に賛成されたから、
法律で人を殺してはいけない、と規定されているのです。

でも、日本では例外規程があって、凶悪犯は殺してもいい、という死刑制度が存在します。

まさに、過去の意思決定のバランスをとった結果ですね。

 

「人を殺してはいけない」
「ただし凶悪犯を除く」

では、凶悪犯とは、どのように定義しましょうか。
という問いが新たに出てくるため、罪のバランスを考える必要があります。

 

でも、普通の人にはバランスなんて意識はなくて、
「自分が凶悪犯と感じた」ということで、死刑を求める傾向があると思います。

求めるだけで、実行に移す権力がないから、それはいいのですが、
仮に権力を持っていたら恐ろしいです。

専制君主制時代に、王に歯向かった部下が処刑された、
といったことがあると思いますが、「凶悪犯と感じたから死刑でいい」とほぼ同義です。自分の気分なんですよね。

で、自分の気分での意思決定に、説明責任を求められたらどうですか?
普通に、イヤでしょ。

 

だから、選挙でプロの説明責任実行屋さん(=政治家)を選んで、
自分の意見を代弁してもらう制度ができたんですね。

 

答えがない問いに対して、主張をしたら、
必ず反論が生じます。

科学的合理性を軸にする、というのが最近のトレンドと思いますが、
感情はまだ合理的に扱えない分野なので、多数決では感情に負けることもあるでしょう。

普通の人は、意見を目の当たりにした上で、
どちらが良いか、どちらがましか、を選択するだけで、
自分の主張として、どちらが良い!悪い!とは、言わないんでしょう。

どちらもあり得るから。

どちらもあり得ることを理解せず、無邪気に賛成/反対を表明する人もいますが、
そんな人達は、知性が薄い人たちとバカにされるに終わっている気がします。

世の中の大半は、明確な主張はなくて、バランスを見て判断しているだけなんでしょう。僕自身も含めて。

反論があると自覚しつつ、その説明責任を果たすのは、なかなかしんどそうですが、
中途半端な思考では世の中は動きません。

バランスのなかで、自分が思う立ち位置を明確に主張できるようにしていきましょう。

自分というキャラ作りですね。

何もない、ただバランスを追い求める人間の本能もいいですが、
せっかくの自分の人生、自分のキャラを立ててもいいかな、と思いませんか?

それではまた。