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雑談とか日常思ったこととか

自分のキャラを活かすために、他人を主人公にする

自分に自信が持てなかったり、
他人からどう思われているのか気になったり、
人間というのは、本当に「自分」に関心がある生き物だ。

誰にとっても、人生の主人公は自分だ。

そうは言っても、他人から認識される自分に、影響を受けない人はいない。

そんな当たり前な事実を拡張すると、
「他人」の中に、「自分」のキャラを作り出すことで、
ようやく自分のキャラを認識させられる感覚になる。

例えば、今読んでいる文章は、まさに今僕が書いているのだけれど。
元をたどれば、誰かがある線の塊の形を「あ」と呼ぶと定義したおかげで、
文章が成り立つのであって、ただの線の塊だったら、認識されない。

「صباح الخير」とか、ただのラクガキにしか見えないでしょう?
アラビア語の「おはよう」 Google翻訳より)

他人が考えた「言葉」を利用することで、自分の 考えを伝えるのが文章だ。

新しい若者言葉が浸透したとしてもも、誰かが最初に作った言葉で、それが単に広まっただけなんだ。

言葉は音声や視覚要素で、一般共有されやすいけれど、
キャラというのも実は同じで、他人から認識されてこそ、伝わることになる。

自分に自信を持てないのは、自分のキャラを認識できてないからだ。

キャラがある人は、自分に自信を持っている。

例えば、ワンピースの「ルフィ」は中mをや、夢を追う現実主義者「夜神月」のような、
マンガに出てくるようなキャラは、断言できる「何か」を持つ人物だ。

少年漫画の主人公はわかりやすい性格をしていることが多くて、
正義と悪を二極化した上で、悪を倒すことに主眼がある。

現実は、「誰が悪か」を定めるところが一番難しい議題なのにね。

少年漫画より一歩踏み込めば、今度は、何が正義なのかわからない物語が表れる。

東野圭吾さんの、「容疑者Xの献身」なんて、
殺人事件を解決することが、本当に善いことと断じれるか、というところまで踏み込んでいる。 

容疑者Xの献身 (文春文庫)

容疑者Xの献身 (文春文庫)

 

 鋼の錬金術師の最終巻でロス少尉が言っていたように、みんな『正義』が好きなんだよ。

『正義』が何かなんて考えもせずに、感情に任せて正義を慕うんだ。

その『正義』を名乗る人物が、現実に現れた場合に、支持につながるんだ。

AKBがバカ売れしたのは、「AKBが良い!」と誰か(作成者の秋元康さんかな?)が言い、それに追随する支持者が表れたからであって、
AKBに匹敵する可愛い子や歌が上手い子を好きなわけではない。

AKBという正義が表れたからこそ、抽象化して、世間一般にAKBは善いものだ!
と世間一般から認識されたら御の字、という算段で始めたんじゃないかな。 

 

だから、自分に自信がないのなら、他人からキャラ付けされて、認識されるほどのキャラを演じられるほどの、自分のキャラを認識すれば良いんだ。

別に、キャラを演じるからといって、成長しないわけじゃない。
ゆうこりんとか、不思議っ子から見事に成長して新キャラでテレビに出てるしね笑

 

他人からキャラを認識されないレベルに自分が定まっていないと、
自信を持てないんだろう。

自信が持てている人には全く必要のない思考だけれど、
自信がないなら、他人からどうキャラ付けされたいか、を考えればいいと思う。

「自信を持つ」、という他人が介在する精神論を、
自分だけで解決するのは不可能だから、他人を意識しよう。

それではまた。