オレンジ色

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檻としての学校の役割

まとめ

人間は知性ある人間じゃなく、本能に従うしかできない時期がある。

その時期は、しつけが重要になるから、檻の役割として学校が必要になる。

 

記事はこちら↓

教育のテーマって多くの人の関心を集めるんですよね。

日本在住なら誰もが小学校、中学校は行くわけだし、

全員が「学校」にいた経験を持つから、「学校」の話はしやすいんでしょう。

 

学校って言えば教育!ということで、ゆとり教育、脱ゆとり、

とか言われています。

でも、そもそも学校の役割は学問だけじゃありません。

学校の役割についてはこちら(学校はいかなくていい - オレンジ色)でも書きましたが、

社会を学ぶ場としての役割も、学校にはあります。

 

社会を学ぶ、という最初の段階で、しつけが必要になります。

教育としつけの違いを僕は次のように考えています。

しつけは、社会で生きていく上で最低限必要な行動習慣を教えること。

 トイレに行く、重大な法律違反を犯さない、足し引き算ができる、伝わる言葉を話す、など

 

教育は、社会で生きていく上で有効活用できる知識を教えること。

 簡潔な文章を書くための漢字、微積分をできるようになるための因数分解、社会の成り立ちと今後を語るための歴史、など

 

しつけは、小学校低学年が終わるころには達成していないと、

今後、自立した社会生活ができない可能性が高い行動習慣です。

足し引き算ができないと買い物もできません。

 

僕は学校を檻と表現しましたが、

社会は野生で、学校は檻だという意味で使っています。

動物園の檻ですね。

檻の中では、悪さをすれば怒られ、良いことをすれば褒められます。

そして何より、安全は確保されていて、脱走したら厳しい制裁が待っています。

 

檻の管理者はいずれ、子供を檻から出さないといけないのですが、

僕はしつけができれば、檻から出すべきだと思うのです。

 

卒業は、強制的に檻から追い出すことになるのですが、

卒業までにしつけは終わっているべきだと思います。

とはいっても、いきなり社会の野生は厳しいので、

小学校高学年、中学校、高校という、例えるならサファリパークくらいでしょうか。

自由に動ける幅は広がり、檻よりも野生の状態に近い、

でも、野生に比べたらまだまだ安全は確保されている状態です。

 

檻にいる動物には自主性がありませんが、

サファリパークならば自主性があります。

本能ではなく、社会の秩序に合わせた行動が求められます。

秩序に合っていたら、何をやってもいいんです。

そこで生き残るには、知恵が必要です。

知恵を磨くために、教育で知識を付けるのです。

 

だから、できるだけ早く檻から脱して、

社会で役立つ教育を得ることが、社会という野生で生きるコツになります。

 

檻から出たあとの話も多くなりましたが、

学校の役割はまず、檻のなかでしつけをすることだと、僕は考えています。

そして、一刻もはやくしつけを終えて、実際の社会に出る前に野生を感じてもらうことが、教育の目標だと考えます。

 

だから、ゆとり教育がどうとか、あまり関係がないと思うんですよ。

ゆとり教育のせいでしつけられずに野生まで出てきている、

過保護で当たり前と思っている人間が増えた、

というのならば議論の余地がありそうです。

そもそもしつけは小学校低学年で終えられるべきだと思いますから、

仮に過保護で当たり前と思っている人間が増えたというのは、

ゆとりで学習指導要領が変わったとか関係なく、単に教育の変化が起きたのでしょう。

モンペが増えたとか聞きますし。

 

学校の檻としての役割はあまり議論されているところを見たことがないですが、

学習の習熟度とかそれ以前の、社会と子供のための重要な役割だと考えます。

だから、人間を「檻」に入れるという発想が嫌悪されるかもしれませんが、

議論すべき内容だと思います。