頭のいい人は、わかりやすく「正確に」伝えられる人
まとめ
考えなしのわかりやすさなんてゴミクズ以下。お金を払ってでも排除したい。
考えられた末の、
正確かつわかりやすくかつ、示唆に富む表現こそが至高だと思う。
思考過程はこちら↓
F=mc^2
e^πi=-1
複雑なものをいっぱつでわかりやすくかつ、
「正確に」
表現することは素晴らしくキレイだと思います。
だからこそ、わかりやすさは重視されるべきだと思うし、
できるだけ無駄なものを排除して、
必要十分なものだけがある状態が望ましいと思います。
世間の言葉には、正確さが抜けたわかりやすさが多いと感じます。
同じ事象に対して新聞ごとにさまざまな書き方をしていたり、
違う言説が多くあったり・・・
何を信じたらいいのかわかりません。
信じるべき「100%の事実」なんてものがあまりないだけかもしれませんが。
数学は、人間が創りだした理想世界を扱うものなので、
100%がありえます。
例えば、
1+1=2
は、ペアノの公理(wiki参照 ペアノの公理 - Wikipedia)により自然数を定義して
導けます。
これは絶対であって、1+1が他の答えになる可能性はないと言えます。
同様に、オイラーの等式
e^πi=-1
も表せます。(これもwiki参照 オイラーの等式 - Wikipedia)
これ、パッと見ではまったく信じられない等式ですよね。。。
ネイピア数:e(微積分やlogで使うe)や、
虚数:i(大学受験の数Ⅰの二次関数で解なしの場合の解)や、
π:円周率
が合わさって、
実数の『-1』が導かれるなんて、、、、、
そんなバカな!!!と思いますが、
でも、これは100%正しいんです。
実社会・現実は、そうじゃないです。
天気予報は、0%や100%であっても雨は降ったりやんだりだし、
俺ら人間が明日も生きているか、100%の確率じゃない。
だから、100%の事象なんて、現実にはないんです。
でも、何かを信じるにはそれなりの確度が必要です。
それこそ新興宗教みたいに、
救いを求める人に、
『信じれば救われる』とかなんとかいって、
「なにも信じられない状態」から、
「1つの概念を信じさせて」救わせることはあり得ます。
でも、それは100%と信じさせているだけで、
100%ではありません。
人間、現実を疑おうと思えばいくらでも疑えます。
疑いの究極が、デカルトの
「我思う故に我あり」との言葉だと思います。
自分の存在すら信じられないと思考しても、
信じられていない自分は存在することは確かであると。
それは、100%であるという思考です。
俺はこれを、
「100%の確証を得るなんてことはしなくていい」
というように曲解しています。
だって、100%なんてことはないのだから。
どうやっても、明日死ぬ可能性なんて排除できないし。
(明日、自分の心臓が止まらないとは誰が保証できる?)
話を戻しますが、わかりやすさのことです。
わかりやすいっていうのは、
「信じても良いかも?と思えること」
だと俺は考えています。
意味がわからないことというのは、2種類に分けることができます。
「いやいや、そんなわけないでしょ。」
ということと、
「本当に深く考えないとつながりがわからない」
ということです。
前者 「いやいや、そんなわけないでしょ」
というのは、例えば俺にとっては、
「目標は明確にして、期限を決めて初めて意味を持つ」
といった主張です。
俺は、目標は暗示的で、目の前のことをこなすことでいつの間にか達成している、
という主義なので、相いれません。
後者は、それこそオイラーの等式のように、
「そんなわけ・・・ない・・・よね・・・?」
と思いながらも、論理を追うと正しいと信じられることも含まれます。
当然に信じていることと、
感覚としてはあまり信じられないけれど、論理として正しいことを、
上手く組み合わせることが重要で、俺の課題でもあると思っています。
小説は俺もよく読みますが、
小説の世界というのは、完全に組み合わせが上手くいった世界だと、
俺は考えています。
ひとりひとりの行動が無駄なく伏線になって一つの物語を形成する。
なんて物語的で、現実にあり得るかもしれない話でしょうか。
正確っぽさは現実の理想を表さない。
民主主義がそれを証明しつつある。
いまはまさに、その史実を作ろうとしている過程だと俺は考えます。
自国の利益を求める。
自分の家族の利益を求める。
自分の利益を求める。
・・・・・・・・・・・・・
どれも、「自分」という中心を絵に描いた思想です。
相手の立場を鑑みて、相手の意見を踏まえてきちんと「議論する」ことが、
知性ある人間としての、
最低限のマナーだと俺は考えます。