言葉で通じ合えるはずがない。
人間は、多種多様な言葉を使いこなして、
他の人間と通じ合おうとする。
言葉にしたら、
自分の考えてることが伝わる事を期待して。
自分の考えていることを、
「言葉」という限定条件の中で表現する。
感情は、言葉に表現しきれない。
でも、感情を感じあえることもある。
「本音」には、感情が潜んでる。
どれだけ理屈を重ねたとしても。
理屈は、感情を説明するためのものだ。
信じることからのつながりで、
今の感情を正当化するための手段だ。
科学や論理は信じやすい。
過去、繰り返し実証されてきたからだろう。
例えば、地球が重力を持っていること、
日常では当たり前すぎて忘れるような、
そんな当たり前な事象を説明する物理学がある。
物理学では、重さを持つものは引かれ合う。
では、その物理学を支えるのは何かというと、
過去の事実だ。
過去に繰り返された事実。それが科学の根底にある。
反復可能性、持続可能性が科学の根本的原理。
つまり、昔起こったことは今も起きるし、将来も起きるだろう、ということ。
そんなものは、人間が蓄積してきた経験でしかない。
証明には過去の事象しか使えない。
将来のことは、将来になってこそ初めてわかる。
自分が信じれる理屈には、自分が何を信じているかを定めるヒントがある。
科学には過去の実績という「事実」が、強力な信念につながる。
俺は科学的な論調が好きだし、それを信じる。ただ、妄信はしないけれど。
科学は、過去の経験がないと意味をなさない。
自分のこれからの生き方、人間関係、歴史、
そんなものに、科学は役立たない。
個人的すぎて、一般化なんて不可能だ。
一般化が不可能な個別の事象を
「言葉」で表現しきれるわけがない。
それでも、表現するための努力はしてみようか。
言葉にした瞬間、感情が虚無的になる。
心理学でも、悩みを話して吐き出すのがかなり重要視されている。
言葉にしたら、個人的な感情が一般化されるから。
でも、そんなもんじゃ感情は片付かない。
言葉にした瞬間に、どこか自分の本当の感情とずれが生じてる。
それで妥協できれば、言葉にして意味があることになる。
納得できなくても、他の答えはない。
言葉以上に感情を表現する方法があるのなら、
その手段を言葉よりも前に使えばいいんだから。
言葉に頼るなら、感情を表す精度を上げていくしかない。
思ったことを全て表現しきるのは無理でも、
言葉で表せる比率は高い。
がんばれば50%程度、相手に伝わることもある。
誰かの話が「重い」といったとき、
重いのは感情だ。感情がのってるから、重いんだ。
本人にそんなつもりはなくても、受け取った相手は「言葉」で勝手に解釈する。
言葉は、一人ひとりにとって定義が違う。
でも、それなりに共有してきた時間で、
なんとなく意味合いを互いに感じあってる。
ふわふわした音声だ。
だから俺は、将来を断定するような言葉に疑念を抱くし、
単なる嘘だと断じたくなる。
言葉に虚無感を感じれる人と、俺は共感したい。
互いが静かに過ごしていても、通じあっている、そんなシンパシー感というか。
静けさに耐えられず言葉を紡ぎださないといけないような、
そんな関係は嫌だ。
話したいときに、話せばいい。
どうせ話しても10%も通じないのだから。