オレンジ色

雑談とか日常思ったこととか

想いは理不尽に発露する

例えば、憤りを感じたときのことを思い出してみると、
自分の大切なものが傷つけられたときや汚されたときだと思います。

逆に、大切じゃないものが傷つけられたとしても、怒りを感じません。

何を大切に思っているかによって、感情が決まるのかな。

 

この間、居酒屋で友人と飲んでるとき。
スクリュードライバーを口に運んだら、
なにか、チクッとした。

魚の骨かと思って出してみると、
5mmくらいの細長いガラスの破片だった。

僕は、びっくりはしたけれど、
特になんの感情も出てこなかったところ、
一緒に飲んでた友人が、

「いや、それ怒っていいだろ」

って。
いやいや、怒ってどうなるんだよ?
ガラスが入ってたんですけど、、、
とお店に言ったら、飲み物は替えてくれたし、
店長が直に平謝りしてくれた。

僕はそれでもう、謝られるのも面倒だしいいや。
と思ってた。
友人はなんとなく腑に落ちない顔をしていた。

 

客観的に、怒っていいタイミングだとは思う。
でも、僕には怒りが全く湧かなかった。

なんでだろう?と考えたとき、
仮にこれが、僕じゃなく僕の恋人(いないけど)のコップに入ってたとしたら、
僕は怒ったと思う。

大切だと思ってるものが、傷つけられる可能性に晒されたことに、
怒りを感じたと思う。

飲み込んでしまったわけじゃないし、結局何も起きてないのだから、
いいじゃないか。
とは思えないと思う。

そうしたら、ガラスがあったことがわかった瞬間、
無事だったとかそういう結末はどうでもよくなって、
単に、「どうなってるんだ!!」と、問い詰めたい衝動にかられると思う。

むしろ、そうであってほしい。
大切なものを傷つけられそうになっても怒れないような、
冷徹な人間にまで、なりさがりたくない。

冷静でないといけない場面はあるけれど、
常に冷静でいるのは、つまらない。
テンションがあがること、感情が高ぶることがない人生なんて、
無意味な人生だ。

人生に意味を求めるとすれば、
自分が感情的になれる場所を探すことだと思う。

感情の発露は、社会から「理不尽だよ」と言われ続けて、
萎縮していく。

感情に対して、理路整然と合理的な説明ができなければ、
発露しちゃいけない、と思ってしまう。

発露のしかたも、叫ぶとかではなくて、
静かに燃えているように見せるしかできない。
自分自身も、本当に燃えているのかわからない。

僕の感情なんて、それっぽっちなんだなぁ。

社会で自己実現を成功させている人は、
感情を社会に受け入れてもらっているように見える。

作り物の感情なのかもしれないけれど、
感情を広く発露しているように見える。

それが、羨ましい。

 

感情の発露を感じた瞬間に、
冷静にその感情を分析しだす自分がいる。

なぜこんな感情になった?
ほんとうにその感情は正当性があるか?
感情を発露することに合理性はあるか?

そして、そんな思考をしだしたときに、
感情は沈静化する。

感情に明確な理由をつけたら、感情は発散していくから。
感情は刹那的で、躍動感があるものだ。

躍動を感じたい。
昔は、感情をコントロールすることを目標にしていたけれど、
コントロールしようと思った時点で、
感情なんて簡単に抑えられる。
嘘でも、理由をつければいいから。

これからの人生、いかに激しい感情を感じるか、
それも、怒りじゃなくて、喜びの感情を感じるように、生きていきたい。