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強者と弱者 ~「弱者は死ぬべき」だと俺は思ってた~

強者こそが生きて、弱者は死ぬべきだ。

 

俺はそう思っていたし、だからこそ、

強者になろうとした。

強者であり続けたいと願った。

強者だと信じたかった。

 

でも、僕は完全無欠じゃない。

他の人のほうが、圧倒的に強者なことも多い。

人間全部に、それぞれ突出した才能があるなんて思わないけれど、

僕が得意なことを僕以上にできるやつがいる現実がある。 

僕にしかできない、完全無二なものはない。

 

僕が得意なことだって、やがてはまた誰かができるようになって、

誰もができるようになって、価値が薄れていく。 

そんなものだろう。

 

例えば器械体操では、昔は世界的にすごい技術だったのが、

いつの間にかみんなできるようになってたりするんだし。

人間自体が進化するのだから、誰かの得意分野だって、みんなできるようになっていく。

 

その瞬間、強者は強者じゃなくなる。

俺自身が切って捨てるべきとした、弱者になり下がる。

強者と比較してしまうから。

 

僕が言う、

 強者とは、自分の信念に基づいて行動出来る人。

 弱者とは、周りの目線に基づいて行動が制限される人。

 

自分に不足があるときは、それを持っている人に嫉妬する。

嫉妬するのは、弱いからだ。

自分が持っていないものを他人が持っている状態でかつ、

得るための努力ができないときだ。

努力ができるなら、たとえ得られなくても強者であり続けられる。

努力ができないとき、それは諦めたときだ。

 

努力が無意味と悟ったときに、

努力は無為にかわり、執念は嫉妬にかわる。

 

『自分はがんばった。それでも届かなかった』

と思うより、

『自分の努力不足だ。もっと頑張ればできた』

と思うほうが、自分の才能に対して優しい。

どれだけ頑張れば全力かだなんて、自分ですらわからないのだから。

 

『がんばった』なんてのは、結果が出たから言えることであって、

『がんばったけれど無理だった』というのは、

自分の潜在的な能力、才能までも否定する。

 

目標に向かって努力した結果、実を結ばなかったとき 

他人が設定した目標、例えば期末試験とかになら、全力でその言い訳は使わせてもらう。

もっとがんばればできた。はい、話は終わり。

 

でも、自分がやりたいって思って、

自分が目標としていたことに対して、

『これ以上無理ってくらいにがんばった。でも結果が出なかった』

なんて認めたくない。

言い訳なんていくらでも思いつく。

『僕には才能がある、だけど努力が足りなかった。』

 

もしかしたらこんな思想、本来は中学・高校生くらいで気付くものなのかもしれない。

僕は、気付かないまま、アラサーにまでなってしまった。

でもこれからもそれでいいと思ってる。

 

それでも、チャレンジして目標に届かなかったという機会は、

歳を取るごとに増えていく。

『今さら』がんばったけど、結果が出なかった。

と。

『今さら』という単語がついてまわるようになる。

 

これからの人生、

何かにチャレンジするときはいつだって

『今さら』なんだよ。

そう自分には言い聞かせることはできる。

 

ダメ元でがんばろう。

最強の人には勝てなくても、そこそこ優位に立てればいい。

俺が『今さら』将棋を全力で勉強しても、

羽生善治先生には届かない。そりゃそうだ。

だからって、将棋をやっちゃいけないことはないし、

上位1%なんてすぐなれるだろう。

日本の人口が1億人強だから、100万人以内。

 

諦めるのは、弱者がすることだ。

諦めて、成長する努力をしなくなること、それが弱者だ。

 

人生の道のりにも、強者と弱者がある。

たとえ360度中の359度の道が封鎖されていたとしても、

残り1度の道のりを『自分で』選んで進んだのなら、

その人は強者だ。

 

優柔不断に、残り1度の道のりにすら自分で足を踏み出さず、

誰かに背中を押されて一歩踏み出したとしたら、

それは弱者だ。

 

まぁ、その誰かが結果的にいい方向に背中を押してくれることもあるけれど。

 

道を進んだ結果、

良い結果になれば、背中を押した誰かのおかげ。

悪い結果になれば、背中を押した誰かのせい。

結果に自分の責任がない状態には変わらない。

 

だから、選んで、踏み出す選択を『自分で』することが、

強者の証だと僕は思う。

一歩も踏み出さないで背中を押されるのを待ってる人種は好きじゃない。

自分の人生まで誰かに責任転嫁する弱者に、僕は成り下がりたくない。

 

弱者からの相談にはのりたくないけれど、

強者からの相談には積極的にのりたいと感じるのも、そういうことだろう。

 

弱者からの相談には、僕の責任がつきまとう。責任を押し付けられている。

だから、適当なことは言えずに、保守的にどんな選択も有りだって応対するだけになる。

 

強者からの相談には、

『あなたは◯◯が向いていると思う』

とか、人格を含めて応対したくなる。

 

僕の意見なんぞは相手の意思決定の一部分であって、

相手の参考になる意見を言えることこそが楽しいからだ。

いろいろ相手が考えた結果、僕の意見が採用されれば嬉しいな。

強者の人間関係が、すっきりとした、言いたい放題言える関係なんだろう。

 

まぁこれは、

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。

の雪ノ下と比企谷八幡の会話から想起した思想なんだけれど。

 

本当の弱者は、

 誰かの目に気を使って、

 誰かの価値判断に依拠して、

 誰かが悪いと思うものに蓋をして、

 誰かを悪く言う者を排他する、

そんな存在だと思う。

 

大勢を味方につけたほうが勝つ民主主義では、

弱者を味方につけることこそが勝者になる能力なんだろう。

弱者は責任感がなくて、責任を強者におしつける人だから。

人間、責任なんて負いたくない人ばっかりだ。

 

具体的な目標を立てた上で、達成できずに弱者になり、
衰退するしかないこともでてくる。

でも、自分の人生そのものには、強者であり続けたいと思う。

人生論でさえも誰を強者と認定して、自分を弱者として奴隷化するんじゃない。

誰かの生き方は、参考にするだけだ。自分の人生は、自分で選ぶ。