論理がなければ言葉じゃない。でも人間は言葉を話す。
まとめ
論理的じゃない言葉でも伝わることは多いけれど、
敵対的な人間と言葉を交わす時は論理を用いないと全く伝わらないし、
網羅的に論点を取り上げないと揚げ足をとられてしまう。
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言葉は、
自分の思考を整理するためにもありますが、
大部分は他人と思考を共有するためにあります。
2人以上の人がいるとき、飯を食べるとすれば、
「晩御飯、どうしようか?」
といった問いから、
「よし、和食の定食屋にしよう」
まで行き着くまで、言葉が必要です。
言葉はコミュニケーションの1割以下の役割だという論文もありますが、
(メラビアン参照 アルバート・メラビアン - Wikipedia)
それでも、例えばこのブログ上の言葉は、視覚言語・聴覚言語がないことから、
100%言葉で構成されています。
メラビアンの理論では、ボディランゲージと声のトーンで9割程度の
コミュニケーションがとれるとのことです。
実際、だいたいのコミュニケーションはそれで取れます。
全く日本語・英語も通じない外国人相手にも、
まず挨拶で握手をしてこちらから歓迎を示し、
「デリシャスフード ウィー ゴー(Delicious food we go)」
とか、平易でかつ完全に間違った英語で言って、
指をさしてあっちに行くぞ!というように振る舞えば、
外国人は
「OK! Thanks!」
とか、拙い英語を言って着いてきて、一緒に飯を食べてくれますよ。
そして、料理が美味しかったら、
「いいね!」ポーズというのでしょうか、
してくれたらわかりますし、
ちょっと顔をしかめて箸をつけなかったら、
あんまり好きじゃないんだな、ってわかります。
言葉が共有されていないことによる弊害って、
互いを受け入れていれば、そんなにないと思います。
互いに信頼感がないとき、
言葉は武器に変わります。
言葉が通じないときは、
「あーぁ、この感覚は伝わらないか」
ですみます。
そして、わかり合えない人種として片付けます。
だって、俺は日本語で伝えてるのに、
相手に「?????」って顔をされたら、
伝わってないなんて明らかですし。
他の言語よりは少しできる英語でも単語だけじゃ伝わらなかったりしたら、
説明不足っていうより、互いの共有言語不足でしょう。
俺がこの記事で言いたいのは、
敵対的な相手には、こちらの論理は伝わらない
ということです。
だって、共通の言葉を持ってないんですから。
論理や論理性は言葉で表されます。
「夕焼けの次の日は、西側に雲がないから晴れの可能性が高い」
という論理は、言葉で表されています。
これを言葉なしにジェスチャーだけで伝えるのは至難の技でしょう。
話し言葉でも書き言葉でも、伝えにくい現象はあるんです。
だからこそ人間は言葉にルールを設けて、
現実に使い物になる人間を育て上げて、使い倒しているんだと思います。
共通の言葉があるのならコミュニケーションで優位に立てるのですが、
英語と日本語が封じられたらなかなか厳しいです。
だからこそ、互いに自分の思想の通りのものに頼ります。
思想というより、自分の知っているもの、というほうが正しいかもしれません。
日本語が、日本人に通じるのも、『日本語』という宗教で通じあってるだけなんですから。
言葉は、自分の思考を他者と共有するためのツールです。
他者と共有できない言葉は、言葉になりえないと思います。
自分自身の思考整理に言葉を使うこともありますが、
それは、過去の自分と今の自分とが会話しているだけの話です。
わかりにくいかもしれませんが、
言葉は将来の自分を含めた他人にしか、伝わらないものだということです。
今の気持ちは、今しか感じられない。いくら文字にしても、
気持ちまで再現するのは不可能です。
気持ちは感情だから。
論理は、言葉にして初めて成り立つものだから。
そういった思想を、小中高の教育で学びたかったです。